2024.06.25
「人生って、学ぶこと」 # “楽しく学ぶ”アイディア帳
私には2人の息子がいます。
長男は今年中学にあがり、次男はいま小学4年生です。
「学ぶ」がテーマの今回、思い浮かんだエピソードが2つありました。
勉強に関しては親が教える程度しかやっておらず、あまり偉そうに書くことができませんのでこのエピソードについて書くことにします。
まず1つ目のエピソードです。
長男の中学の入学式から2週間ほどたったある日のこと。
彼が学校から帰宅し、今日驚いたことがあったと、自分から私に報告してきました。
多感な時期でもあるし、自分から学校や人のことをあれこれと話すことはそれほどなくなってきていたので、親は少し口を出すのを我慢し始めた頃でした。そのせいか、この日のことは特に強く私の印象に残りました。
「先生、すげえわ。」
ドキっとしました。いい先生、好きな先生という表現ではなく、このように尊敬や感服がたっぷりとこもった言い方は、そんなに聞いたことがありませんでしたから。彼が大人になったからというだけなのかもしれませんが、続きを聞きたくてうずうずしました。
「とは?」
私はめいっぱい平静を装って、やっとこの2文字を返しました。できる限り冷静にオープンクエスチョンを投げて、会話の主導権を息子にゆずりました。せっかく話してきてくれた彼の話す気持ちをそがないように必死でした。
本当は聞きたい!! いっぱい質問したい!!
それでも私は「どの先生が」「どんな状況で」「どんなすごいことをしたの」「それでどう思ったの」と脳内を暴れ回っていた質問たちをのどの奥でせき止めて、彼にぶつけるのをこらえました。
彼はゆっくりと話してくれました。その先生をすごいと思った理由は、『先生自身が学ぼうとしている』ことだったそうです。ある授業での話。先生が「もし間違いに気がついたり、違うアイディアがあったりしたら教えてね! 先生も間違えるし、正解が人によって違うこともあると思うから!」とおっしゃったとのことでした。息子は、『先生』が、自分の苦手な分野を正直に伝えたり、一緒に成長しようとしたりするスタンスを取ってくれたことに、
彼の言葉を引用すると「びびった」のだそうです。
ぶっきらぼうだけど、彼なりの表現に奥深さを感じました。
前回のコラムでも書きましたが、今まで数えきれないほど、『先生』からのお叱りがありました。ただ今思い返すと、どれも人に迷惑をかけるものではなく、『先生の型におさまらない』ことに対してでした。細かくは書きませんが、親子ともども人生が変わってしまうほどの経験をして、今があります。その経験があったから。息子は今回の気づきを得たのだと思いました。
先生は正しい。
先生は偉い。
先生の言うとおりに。
そう信じてきた私は、先生や組織に息子が嫌われないようにと、何度も彼を捻じ曲げようとしたりその場をとりつくろったりしていました。親である私が逃げ場所になってやれず、彼は長い間傷ついたと思います。本人は「いい勉強になった」と言ってとてもたくましく成長していますが、何度謝っても私の後悔は消えそうにありません。
自分も含め『先生』と呼ばれる職業に就いている人間ほど、時代の変化に合わせて専門分野を細やかに学び直さなければなりません。そうでなければ大切な生徒や患者に不利益が及びます。想い方ひとつ、接し方ひとつで、いくつになっても立場を超えて学びがあるのだと思います。
息子が、今回の先生の人間性やスタンスが素晴らしいことがわかったのも良い。
立場や年齢によらず学ぶ気持ちを忘れないことが大切だと再確認できたのも良い。
でもそれ以上に、全てのどんな嫌な経験も学びの伏線としてなり、決して無駄にはならないのだということを、彼が数年かけて実感できたことが一番の良い学びだと思いました。
私は彼に伝えました。
「それに気づけるようになったことが、一番の学びだね。今までのことがあったから、その先生の言葉が当たり前じゃないことに気づけたんだと思う。びびった。」
紛れもなく、私たち親子だけができるオーダーメイドのような学びでした。
次に、二つ目の学びについてです。
次男が、理科のテストを持って帰ってきました。点数は良いとは言えないのに、なぜか興奮して嬉しそうでした。学校を休んでいて授業を受けていなかったのに、幼稚園のときの遊びで覚えた内容がでたから、思ったより点数が取れていたとのことでした。
たとえば、ザリガニ釣りをしたこと、虫取りをしたこと、お花や樹液のこと。
遊んで学んだことは、結構覚えているのだと言います。
「俺いっぱい遊んだからな~」と、知識が身についていたことを誇らしげに話してくれました。
確かに、当時休みの日はいつも公園や沢に行っていました。家で騒がれると近所迷惑になることを気にして自分がイライラしてしまうから、お互いのストレスをやわらげるためでした。
その頃夫は仕事が忙しくほとんど家にいませんでしたので、私1人で2歳差男児2人との時間の使い方に苦しんだ時期でした。子どもたちを旅行やテーマパークなど特別な場所に連れて行ってやれないことに申し訳ないと思ったりもしました。
それでも、毎週末できる範囲で試行錯誤しながらやってきたことが子どもたちの記憶に残っていて、それもテストで役にたつなんて思ってもみなかったことです。
またこれも数年かけて伏線回収され、その時期の辛さや申し分けないという気持ちが見事に私の喜びに変わったのです。
いつもだったら溜息をついてしまうような点数でも、よく考えれば何か理由があっての結果です。今回はテストの点数が気にならないくらいに、満足感のある結果でした。
ところで、もう一つ学びについて思い浮かんでしまいました。
私は小、中と学校に通えなくなってしまった時期が3回ほどありました。今でいう「不登校」だったこの期間が、自分にとって必要な時期でした。
父親はせまいコミュニティーでおぼれなくていいと教えてくれました。「勉強なんてどこでもできる」と家で毎朝仕事前に授業をしてくれました。
母親は「学校に行けないんじゃなくて、今は家にいたいだけ」と言ってくれていました。私の両親は、私を否定せず、学校を否定せず、友人を否定せず、私を認め、私をあきらめませんでした。当時私はまだ子どもでしたが、その時猛烈に感動して、人に対する接し方を学んだことを覚えています。
学校がすべてではない、友達がすべてではない、勉強がすべてではない。
大切なものは、目に見えない。
何かをしなくちゃいけないとか、周りと合わせなくてはいけないとか
そんなことって、真っ先に手放していい。
「不登校」からの最大の学びでした。
子どもを産んでから特に、毎日が学びだと感じます。
自分の母と同じように優しく包んでやれないことで自分を責めたりもします。
仕事で遅い日や会えない日があるから
彼らと過ごせるいまがもったいなくてたまらない。
夕ご飯の時に、
今日は彼らがどんな経験をして
何に悲しみ
何にわくわくし
何に怒り
どんな気持ちで帰ってきたのか
ただ、聴いています。
アシストの必要がなければ意見は出しません。
親の考え方の枠にはまる必要もないからです。
『毎日、どんなことにも学びがある』
彼らにそれを知ってもらいたいし
有難いことに毎日、私も彼らから学んでいます。
『学ぶ』ことの楽しさを知っていれば、
『勉強』をしなくてはいけない理由を見つけた時に
きっと馬力が出て
踏ん張りがきくのだと思います。
まず親が学ぶ。
先生が学ぶ。
大人が学ぶ。
社会が学ぶ。
経験や発想は目に見えないけれど
子どもたちから学ぶことがたくさんです。
生活から学ぼう。
失敗から学ぼう。
出会い、遊び、悲しみ、人生から。
何からでも、学ぼう。