close

2023.11.28

FAMILY/家族・子供

先生の先生 #我が家の本棚

このエッセイのテーマをもらってから「おすすめの本」について私は考え込んでいた。

子どもの年代や性別によって、おすすめの本がたくさんありすぎてしぼれそうになかった。

 

そこで、思い切って小学生の息子に相談してみた。

息子は、本を読むことがとても好きだからだ。頑張らないと一冊読み切れない私とは違い、一日中でも飽きずに読む。絵本、児童書、小説、漫画、なんでもよく知っている。

 

「ねえ、子どもとかお母さんたちにおススメの本って何かある? 今度エッセイでおススメを紹介するんだけど、なかなか決められないんだよね。」

 

息子も、たくさんありすぎるから難しいな~と悩んだが、少し間をあけて、「論語?」という答えを返してきた。読み聞かせ用の絵本を想定していた私は、少し驚いた。しかし、息子が「論語」の本を選んだ理由はわからなくもなかった。

 

 

数年前のことだ。

あの日、息子は家に帰ってきた途端、堰を切ったように泣きだした。毎日のように学童に通っていた学童からの帰宅後だ。

「悔しい。先生って、自分が悪くても絶対謝らない。先生の先生っていないの?」

文字にすると伝わりにくいが、あの時の怒りと悲しみの表情は、今も私を苦しめる。

 

どんなに私が落ち着かせようとしても彼は泣き止むことができなかったが、途切れ途切れになる彼の言葉を集めると、容易にその悔しさを理解できた。

 

先生が一方的に勘違いをして、自分の話を何も聞いてくれなかったと。周りの友人たちが本当のことを先生に言いに行ってくれたが、勘違いだとわかったあとも先生が謝ることはなく、その後もみんなの前で犯人扱いを継続されたとのことだ。

 

普段、息子は先生に怒られることなど気にしない。廊下に立たされようが、「やっちゃったな~」とおどけるほどのメンタリティの持ち主だ。今回も、先生の勘違いで怒られたことなどはどうでもいいと息子は言った。

納得がいかないのは、普段子どもに「謝れ」「反省しろ」と言う大人が、自分が間違えた時には謝らないということだそうだ。

 

その言い分を聞いて、私は雷に打たれたようにショックを受けた。

「ああ、こりゃダメだ。」と全身から力が抜けた。

ダメだというのは、この先生に対してではなく、自分に対してだった。

 

この件だけではなく、過去にも何度か学校や学童から息子のことで連絡が来ることがあった。もちろん悪いことをした時には息子と一緒に考え、しっかりと反省し、謝罪した。

しかし、どれも友達を傷つけるとか、社会的に問題になるようなことではなかった。「ノートのすみにパラパラ漫画を描いていた」とか、今思えば「そんなことか」と思ってしまうような内容でのお叱りも多かった。

 

当時の私は余裕もなかったので、電話で連絡が来ることにおびえ、その場が無難に収まるように体裁を取り繕うことを優先していたように思う。なんとなく腑に落ちないようなことでも、「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」とか「以後気を付けさせます」とまず謝った。親の弱さか自分の弱さか、もめることはしたくなかった。息子が毎日行く場所で、私のせいで嫌な思いをしたら困ると考えてしまうからだ。

 

モンスター親と思われないように、和を乱さないように。息子の話を聴く前から、私はいつも答えを出してしまっていた。所属組織から嫌われないように、「そういうこともあるよね、でも先生の言うことは聞こうね」などと子どもの方をむりやり矯正しようとしていた。

 

そんな今までの自分を、その時激しく責めた。今でもずっと後悔している。その都度息子に話を聴き、意見を聴いたうえで、報告のあった事柄に対して親としてどんな対処をするべきかを考える必要があった。息子の逃げ場を作ってやれていなかったし、もっと早く自分の子どもを信じる強い母親になるべきだった。

 

 

親は子どものことになると、どこまでも悩み、どこまでも不安になる。

正解がないから、自信がもてないのだ。それのせいで、子どもを必要以上に叱ったり、周りにいい顔をして小さな枠にはめようとしたりしてしまうことがある。

 

自分がいい親だと思われたいから?

学校に嫌われないため?

社会に出た時に子どもが困るから?

 

 

でも、そんなのどれも間違っている。

子どもらしいことは、子どものうちにやらせてあげないとダメだ。

大人みたいにできちゃったら、もう大人だもん。

子どもが自分を押し殺して、波風をたてずにやり過ごして生きていくなんて、不気味だ。

 

 

「先生にも先生が必要だ」と主張してきた息子に、私は深く共感した。私たち大人も間違った行動をとることはある。先生にも先生がいていいのだ。

 

涙がおさまってきた息子に

「先生も人間だからさ、間違えちゃうときってあるんだよね。お母さんもよく間違えて反省してる。たしかに先生にも先生って必要だよね。すごいことに気がついたね。」

なんて話しながら、私は自分の仕事用のカバンから一冊の本を取りだして彼に渡した。本を渡す際、「ちなみにお母さんの先生は、この本なんだよ~。」と伝えると、彼の表情はパッと明るくなって、一気に興味をもったのがわかった。悔し涙は本が読めるように拭き取られ、瞬時に彼が着ていたパーカーの袖に消えた。

 

 

私が渡したのは「論語」の本だ。「論語」と言っても、難しい本ではない。易しい日本語で誰にでもわかりやすく編集されたものである。

 

 

「過(あやま)ちては則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」

このページを息子に見せた。

 

「間違いに気が付いたら、潔く認めて直しなさい。これを嫌がってはいけないよ」という説明を、一緒に読んだ。

 

「お母さんさ、いま間違いに気づいたから、謝りたいんだけど聞いてくれる?」

私が言うと、息子は、えっ? と驚いたような嬉しそうな顔をした。もう、いつものいたずらっぽい彼だった。

 

私は、できるだけまっすぐに一生懸命伝えた。

今までお母さんは先生の言うことばかり聞いていて、あなたを先生に合わせようとしてしまっていた。お母さんが弱くて自分に自信がないから、あなたの味方をしてやれていなかった。あなたのいいところを、そのままでいいよって言ってあげられていなかった。

でも、お母さんが間違ってた。

あなたが持っている「あなたらしさ」を、今は世界中に叫びながら走り回りたい気持ちだよ。

今まで逃げ場になってあげられなくてごめんね。

教えてくれてありがとうね、あなたが、お母さんの一番の先生だよ。

 

 

そんなようなことを、息子の目を見て一生懸命伝えた。私も息子も、今度は温かい涙が溢れて止まらなくなってしまった。他にも色々と話して、最後は二人で笑った。

 

 

そのあと息子と話をしながらパラパラとこの本をめくっていると、また、ある言葉が私の目に留まった。

 

「後生畏(おそ)るべし。焉(いずく)んぞらい者の今に如(し)かざるを知らんや。」

(年齢は問題ではない。若者をみくびるな、彼らからどんどん学びなさい。)

 

 

「うーわ! これお母さんに言ってるじゃん!! 論語の先生に怒られた~!!」

私がふざけてそう言うと、息子はゲラゲラと笑った。

 

 

楽しくなってきた彼は、自分も言葉を探したいと言い出した。あれこれと一緒に読んで、息子が気に入った言葉はこれだった。

 

 

「未だ之(これ)を思わざるなり。夫(そ)れ何ぞ遠きことか之(こ)れ有らんや。」

(心からやりたいと思うなら、やれないことは何もない。思い続けなさい。)

 

 

「サッカー選手になりたいって思い続けるね!」と、嬉しそうにいった。

晴れやかで、まぶしいほどの笑顔だった。

 

 

 

それから何年かたったが、息子が「論語」の本を開いていることろなんて見たことがない。それでも息子は人にすすめる本に「論語」を選んだ。

 

 

数年前のあの日。

母親が泣きながら自分に謝ってきた衝撃がよっぽど強かったのだろうか。

あるいは、私が彼の逃げ場になりたくて、変わろうと努力していることを評価してくれたのかもしれないし、

彼自身にも心に残る言葉や感情があったのかもしれない。

選んだ理由なんか聞かなかった、野暮だから。

 

 

 

「論語」はシンプルで、日常で、普遍だ。漢字がわからなくたって平気だ、わかりやすく漫画にもなっているぐらいだから。

 

どの世代のどんな悩みにも、ヒントをくれる。

答えは自分の中にあるでしょう、自分で考えなさいと。

一人一人の人生を決めつけることも、突き放すこともない。

 

多様なようでいて締め付けが厳しい現代において、シンプルで他者に依存しない考え方を説く「論語」の本を、子どもにも、私たち大人にも、もちろん「先生」にもおススメしたい。

 

 

「君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり。」

(リーダーはリーダーらしく、部下は部下らしく、父親は父親らしく、子どもは子どもらしく、役割を理解し自分らしくいるのがいい社会だ。)

 

※漢字も難しいからよくわからないし、意味もおおよそで失礼します。大目に見てください。

 

須藤 暁子

医師、作家、2男児のママ。
子どもから学ぶ「育自」と「命の尊さ」を伝え支持を得る。

医師、作家、2男児のママ。
子どもから学ぶ「育自」と「命の尊さ」を伝え支持を得る。

DAILY RANKING