2020.12.23
「食べることの向こうがわ」 #食べること、生きること
金曜日。
19時30分。
私にとっては特別な時間。
仕事を終えてようやく2人の子どもたちに「お帰り」と言える時間。
辺りはもう真っ暗だけど、家族が始まる時間。
「お疲れさま」
「今週も無事で良かった」
子どもたちの笑顔を見て、安堵と感謝と、申し訳ない気持ちとが混じる。
けれど翌日が休みの金曜は特に
へとへとに疲れ切っていて気持ちの糸が切れるため
さあご飯を作ろう!という気持ちになれないことがある。
この日、2人の子どもを迎え
いつものように3人で家へ向かっているときのこと。
その日、夫は泊まり仕事で帰宅をしないと知っていた長男がこう言った。
「ねえ、今日はスーパーでご飯買おう。」
金曜日の夜は、私が「母親」としての力を一気に抜いて
子どもたちと一緒に楽しみたいことを知っている彼は
外食でも私の手作りでもなく
スーパーでお惣菜を買うことを提案した。
普段は、ごはんに対してのリクエストをしてこない長男だから
珍しいなあと思いながらも3人でスーパーへ行きお惣菜を買った。
ご飯も炊かなくていいと、長男が白米も買った。
家に帰ってお惣菜を並べた時に
長男が言った。
「今週もお疲れさま! みんな元気でなにより!」
長男は、私がよく子どもたちに伝えるセリフを言った。
今日の長男が、いつもと少し違う様にみえて私は彼に尋ねた。
「今日どしたん? 家で食べたかったん?」
長男は嬉しそうに言った。
「ママも作ってもらったご飯が食べたいかと思って。」
お惣菜は、誰かが自分たちのために作ってくれたものだから、私にもそれを食べてほしいと思ったという。
家で食べるごはんが一番おいしいから、家で食べることを提案したのだと教えてくれた。
その答えを聞いて、私は少し、恥ずかしくなった。
どこかで、今日はごはんを作らなくて悪かったなって思っていた。
お惣菜を「できているおかず」として見ていたから。
でも、そうじゃなくて
「お惣菜という手料理を家で食べる」
そんな特別な夕飯にしようと彼は思ってくれた。
きっと
私なんかよりよっぽど
彼はごはんの裏側を考えている。
野菜を育ててくれる人。
収穫して、洗って、運んでくれる人。
お惣菜を作ってくれる人。
お惣菜ができるまで
その裏側にはたくさんの人がいる。
幼稚園のお芋堀りも
小学校でやった稲作も
プチトマトの水やりも
枯らしちゃったけど大豆を育てたことも
子どもは楽しんでいるだけじゃなくて
ちゃんとその意味を理解して
気持ちが動いていたんだろうなあ。
にんじん1本、米粒ひと粒が
何か月もかかって
作る人の人生がかかって
できていることを
私は忘れていたんだなあ。
毎日のごはん
そこにはたくさんの人の努力と時間が詰まっていて
動物の命もいっぱいもらって
私たちが食べている。
当たり前じゃあないよね。
わかっていたつもりで子どもに話してきた。
何を食べるかよりも
どこで食べるかよりも
誰と食べるかが大切だから
一緒に食事をとりたいと思う人を大事にしようと伝えてきた。
でも、そのもっと前の
「食べられる」ということ自体に
ちゃんと経緯と厚みがあって
大事なことなんだって君から教わる。
そうだった。
食べ物があって
口から食べられて
おしりから出せること
一番ありがたいことだよね。
金曜日
もう21時。
やっぱりいつだって
君との時間は特別だ。